いろは椿
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2011/09/18 (Sun) 客観性と余白と

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今日は、山村若御家元が「上方文化再生フォーラム/上方舞の世界」にご出演のため、午後から伺ってきました。場所は大阪・千日前トリイホール。
東京大学の古井戸秀夫先生によるご説明があって、御家元の一曲目は上方唄「ぐち」。40分程お二人の対談があって、おひらきには再び御家元が端唄「松づくし」を舞われました。
いつもながら鮮やかとしか申し様のない先生の舞に、小さな空間ならではの密な空気感が味わえました。

対談で改めて拝聴して、面白いなと思ったことがいくつかありました。

一つ目は、山村の振りは非常に客観的であるというお話。例として挙がっていたのは、逢瀬の別れにつきものの「鐘」と「鳥(明烏)」ですが、振りの中で実際に鐘を衝くのは何故なのか?というところ。確かに普段のお稽古でもよく出てくるので何の気なしに「ここで鐘ね」と衝く振りを覚えていましたが、考えてみれば、それまでは曲中の女性を表現して、来るか来ないか畳算したり、逢えて喜んだり、何でもっと逢えないの?なんて口説きが入ったりする所に、明け方になったら鐘を衝く振りが入る訳です。ここで主体が切り替わっているんですよね、というご指摘。その後、「ああ聞きたくない」と鐘の音を嫌がる振りがつきものですが、そこではまた女性側に戻っているという。そういえば、他の曲でも時々そうしたフェーズの切り替わりがあります。俯瞰して組み立てないとこういう振りの構成にはならないというのと、元々江戸時代には男性宗家で始まった山村流の宗家筋では理論の通った振りが多いという所に、流儀として、作品として、今に残る理由というのが改めて理解できました。

二つ目は、結論として上の話に通じる点ですが、それでいて、全てに説明を尽くす訳ではないというお話。
一から十まで説明する振りや舞台のしつらえにしてしまうと、世界が小さくなるというところです。月ひとつを見て、場所はそれらしき上の方として、大きさや形や見ている気持ちは観客に任せる余地を残すと、それぞれ見た人がその人の中で世界を咲かせることが出来る、それを大事にしている、ということは、舞う側の度量を感じる言葉であり、響くものがありました。

深いものです。

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冷静と情熱の間で彷徨う日々です。解らなかったことが水滴同士のようにぴたっとつながる瞬間が好き。お仕事は横文字に浸かって、趣味で上方舞を続けています。

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