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10月9日は国立文楽劇場で「若登会」が開催され、朝から伺ってきました。
御家元の大叔父様にあたられる故・若祿次先生を偲ぶ会です。私は直接ご指導を頂いたことが無かったのですが、ご生前、80歳を超えてもすっきり瑞々しい男前でいらした佇まいに、お姿を拝見するのを楽しみにしていたものでした。(流誌に掲載された写真で、お若い時の「吉田屋」の喜左衛門役のご様子など、未だに飽かず眺めてしまいます。)
お開きの山村若御家元と光先生の「袖香炉」から、会主の山村謙江先生の「吾妻獅子」で幕の下りるまで、お手伝いの合間に客席でも拝見できました。若祿秀先生の「虫の音」では、その可憐でありながら妖艶とも言える美貌もさることながら、首の傾げ方、ふっと向けた顔や目の表情一つ一つに、茫々とした野に秋の虫がすだく情景がさあっと広がるようでした。そこに、いなくなったひとを悼む気持ちまで漂うようで、私が想像力を働かせた訳ではなく、動きを拝見しているとそう思わざるを得ないという舞台でした。
今こうして書きながら、白洲正子氏の文章にある能楽師の友枝氏を評した大好きな一節を思い出しました。要は、立ち方が何かを見せようと頭で構築し過ぎるのではなくて、動きがそうとしか見えないという点です。身体がいかに雄弁であるか、そして、身体に委ねて自由に語らせるのは、非常な技術と鍛錬を要することだということを改めて思う機会でした。
帰宅時の谷町九丁目交差点の夕焼け。秋らしい雲が晴れた一日の終わりを見届けていました。
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